21th.FREEWAY DANCE FESTIVAL 

令和元年5月6日(祝・月)。

第21回 フリーウェイダンスフェスティバル(FWDF)が開催されました。5/1をもって元号が「令和元年」になり、正月にも似た雰囲気の中で行われたことは発表会の歴史の中でも記念すべきことではないでしょうか。

残念ながらすべての演目を観ることはできず、休憩の少し前に到着という不本意ながらも楽しめました。

ただ、今回、少々残念だったのは「フィナーレから閉幕」がまとまらなかったこと。
これは我々「観客」が悪いというほかありません。

クラス紹介・講師紹介が終わり、恒例の花束贈呈で舞台の上がカオスの様相を呈するのは毎度のことだが、今回は違ったように思います。いつもより長く、そして人が多く、いつまで経っても帰りません。反面、ステージに行かない客も、観終わったとばかりに席を立ち、帰っていきます。

花束贈呈も終わり、舞台がすっきりし、最後の御礼を申し上げるところになると客席はガラガラ。舞台から降りた観客も落ち着きなくウロウロしています。
緞帳が降りてきましたが、ちょっとラストが締まらない感じで、演者に申し訳ないように思います。

もっとも、観覧中も似たようなもので、スマホの画面が光っていたり、ウロウロしていたり、落ち着きがありません。

今回は、演目がひとつ終わるたびに「ホォウ!」と客席のおっさんの野太い声を聴かされていたので、ちょっとゲンナリ(苦笑)。せめて口笛とかだったらカッコいいのにと思いましたが、どうにもこうにも粋な人間はいないものです。

「歌舞伎」などでは常連客や歌舞伎通の間で様々な取り決めがあるらしい

 

 

他人の厚顔無恥に腹が立つとき、ただちに自問してみなさい。「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがあり得ようか」と。そしてそれに「あり得ない」と答えるだろう。それならば、あり得ぬことを求めてはいけない。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス 第16第ローマ皇帝 ストア派の哲学者

 

観客のレベルの低下・・・という言葉が頭をよぎりますが、なにかこう、非日常空間に日常を持ち込んでくる、または相応の手段を取ろうとしない「無粋さ」に苛立ちを覚える私の方が圧倒的に少数派なので仕方ない事なんですけどね。

さて、本題。

今回は「照明」がひと際優れていたと思います。
随分と練られた感じで、それぞれの「作品の雰囲気」にマッチした光明には観る者を安心させるものがあったと思います。

Light bulb and shadow.

先述したように到着が休憩の少し前ということで、まともに観たのが「14.Jazz Musical」からです。キラキラのトップスがうまい具合いに照明と適応して、振りのポテンシャルの引き出し具合が素晴らしかったですね。メンバーである数少ないメンズのO氏の奮闘は”美事(みごと)”というほかありません。この後の休憩タイムにトイレに行ったら運良くO氏に久しぶりに会えて、その健闘を称えました。

休憩を挟んでTAPグループ。

「15.Basic Tap」は「昭和の刑事」的雰囲気を醸し出しているようでしたが、まだまだ設定の練り上げが足りませんね(笑)。左脇に重い銃をぶら下げている微妙な「アンバランス感」と銃を所持する「緊張感」が無い!見えないからと言って手を抜くべきところではありません(超絶独善的)。

「16.Tap(adv.)」は昨年越えを果たしてました。ただひたすらにTAPの「音」をもって客席をノリノリにさせていたのは見事というほかありません。

 

「17.ポアント&Ballet(open)」は正統派。一度は目を通しておかねばならない。西洋舞踏の根幹でもありますので。
おっさんの野太い掛け声はジャマっ!!!

「18.House」はとても長い時間踊っていたように・・・実感で4分半くらいに感じたのですが、たまたまYuji先生にお聞きする機会があってお聴きしたところ、「3分半くらい」とのこと。密度が濃かったかもね、ということでした。

先生も一緒に踊っておられましたが、生徒を暖かく見守り、気遣う姿勢が好感度マシマシですね。

 

「19.LOCK」ですが、ちょっと先生が目立ちすぎてたかも・・・。クラスの、全体的な印象がぼやけてしまうんですよね。

で、実は「20.Jazz3 -Toshimi-」以降、「21.HIPHOP JAZZ」と「22.Waack」と「23.Jazz HIPHOP(adv.)」、「24.プロダンサー科」がゴッチャになってしまって、記憶の整理整頓があまりついてないのです・・・・。すみません。暗がりだったのでパンフで確認しきれずだったせいもあり(これでメンバーと演目の印象付ける)、申し訳ないです。

 

泣く子も黙る「25.HIPHOP(月)」は、相変わらずのBON先生のテイストながらも、いつもよりおとなしめな印象でした。豪胆さはありませんが、身体をグイグイ動かしていく能動的な感じがありつつも音を追い越していない絶妙なバランス。

そして大トリの「26.Jazz5」。何が良かったって、衣装。

デザインというよりは布の質感と長さと色。布がひらめいて、落ちていくその流れ具合。何とも言えないタイムラグがダンスの振りを何倍にも魅力的にする。肉体の動作が直線的に終わるだけでなく、肉体の動作に合わせてたなびき、またひらめく布が残像的余韻、まさに「質量のある残像」として観る者を釘付けにする。

動作(振り)と衣装の、これ以上ない至高のハーモニー。「舞う」と「踏む」、そういう言葉すら連想してしまうほどの姿勢(姿の勢い)。

衣装に拘りを持つ者として、めったにない光景を見ることが出来たと思います。

ダンスのすべてがここにある「21th.FREEWAY DANCE FESTIVAL」はかくして閉幕。冒頭に書いたように観客の節度が緩くなってしまってダラダラして締まりのないラストになってしまったことは残念でしたが、演者の皆さんの健闘を心より称えます。

 

ダンスとは「エコ・フィロソフィ(Ecophilosophy)」の側面もある。

それは課題発見型の哲学である。前もって課題の全貌が見えているわけではなく、. 新たに出現する課題にも敏感に対応し、そこに選択肢を設定していくような探求領域である。

舞台(スタジオならフロア)に立った刹那、初めて分かることが無数にあるのだ。世間に満ち溢れている「何の役に立つの?」という損得勘定、利益追求、世間体から隔絶されてみるよい機会なのである。

 

声高にグローバリゼーションが叫ばれる今日ですが、各々が自分たちの足元を掘り下げてゆくことこそが今求められていることなのではないでしょうか。『お手手つないで前衛芸術』は成立しないのです。舞踏には虚偽のやさしさや同情は関係ありません。一人ひとりが自分の足で立つことから舞踏は始まります。そして美しい蝶になって羽ばたくためには長いさなぎの期間を経ることも必要なのです。困難の中にこそ希望があり、闇を経てこそ光の世界が待っている。世界が直面している経済の変動と政治的激動の渦の中で、実は私たちの内部にこそ、その現実を凌駕する広大無辺な宇宙が広がっていることを舞踏は教えてくれます。師・土方巽の『舞踏は自然から習え、肉体は物から習え』という言葉がさらに重みをも持ってくるように感じます。舞踏は単独にその世界を生きている、そう思いながらこれからも舞踏とは何かを考えてゆきたいと思います。

和栗由紀夫(舞踏家)

東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.10より引用

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です