遅れながら、あけましておめでとうございます。
15日までは「松の内」なのでまだ大丈夫でしょう。

夫れ大塊は、我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり

「荘子」太宗師篇

【天地は、私を大地に乗せるために肉体を与え、私を働かせるために生命を与え、私が永遠に働けぬよう老いを与え、私を安息にするよう死を与える。すなわち、生きることを大切にするということは、死を大切にするということである。】

 

 

私事ながら年末年始はずっと仕事で、もはや正月感はありませんでした(笑)。

正月に入ってからの初めての休みには、氏神さまへ初詣に行ってまいりました。
「おついたち参り」を始めてどれくらい経ったでしょうか。
片山さんがそういうことをおっしゃっていたのが切っ掛けですね。
最初はどうということのない一般参拝でしたが、昨年あたりからようやく正式参拝(≒祈祷)をボチボチと始め、初詣で昇殿参拝に至っては初めてです。別に難しいことは何もなく、予約して玉串料を持参して・・・だけのことです。

しかし、普段やっている賽銭箱にチャリンとするのがいかに「簡易参詣」というのがよく分かります。
昇殿すると空間の清浄さが違うのです。

正装としてスーツを着用。新年初回ということで、いただいたばかりのロングコートをチョイス。奉献酒は伊勢丹で買ってきてもらった、ちょっといいモノです(もちろんささやかな予算内での話)。

いつもにまして拝殿に上がった時に感じる空間の静謐さが素晴らしい。

ちょっと緊張してるのか、それとも作法の見栄を張ろうとしているのか、玉串の時の手元と所作がいつまで経ってもおぼつきません。受け取ってから神前にどういう姿勢で移動するとか、ここはまだ勉強不足ですね。

あとは別のお寺にも立ち寄ってお参り。ここでは毎年交通安全のお守りを頂いてます。

崇敬神社である上賀茂神社・下鴨神社への初詣も済ませました。もちろん大田神社(芸能・舞踊の神様)も欠かしておりません。

 

 

 

さて、今年は酉年ですね。
だいたい酉というと鶏を指します。天岩戸におけるトコヨノナガナキドリに端を発する、伊勢神宮の神使でもあります。

酉は金気の正位として、金気は五気のなかでもっとも堅固で「乾・天・剛・円」を象徴します。
また方位としては西方であり、9月(旧暦8月)であり、午後5時~7時(夕暮れ)であり、仲秋であり・・・。

「酉」の本来の意味である「植物の生長」にかかわる意味としては、成熟と縮退です。

そういう点で、2017年はなかなか大変な年になりそうです。

 

 

さて、話を脇道にそらすといたしますか。

人間としての、日本人としての資質が問われる年になるかもしれません。
生きることも死ぬことも、宇宙規模でみれば小さなこと。
過去は寸分も変えられず、約束された未来はなく、ただ今があるのみ。

酉年ということで、やはり「火の鳥」@手塚治虫でしょうか。

「火の鳥 鳳凰篇」です。上記の動画はアニメ版ですね。

 

いきなりですが、仏師・茜丸は火の鳥にもう人間に生まれ変わることはないと言われます。しかし、その一方で我王はずっとずっと人間として未来に過去に転生を繰り返しているのです。
時に醜い顔で、時に腕を失い、時に愛する人を失い、それは時の果てまで、犯した罪が消えるまで続くと・・・。

桜の花びらが舞う中で佇む我王。人殺しも辞さない盗賊としての面影はありません。花びらとともに一匹のテントウムシが肩に止まり、それを見て我王は涙を流します。

取り返しのつかないことをしてしまうという哀しさ。変わらない、わからない、知ることもできない苦しみ。このあたりは「宇宙篇」なども観てみるとより深くなるんですけどね。

 

よくいう「命の尊さ」という耳さわりのよい言葉に惑わされてはいけないと思います。
生と死のバランスを無視し、必ず自分にも訪れる「死」そのものが他人事になってしまうのです。

 

「火の鳥 未来篇」より。
ある時ある星でナメクジが文明をもち、極まった結果滅びるというシーン。
最後の生き残りの足掻き。

 

最後にナメクジは呟きます。

『なぜ、私たちの先祖は、かしこくなろうと思ったのでしょうな。 もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ・・死ねたろう. に・・進化したおかげで・・』(手塚治虫『火の鳥』未来編より)